2005年10月10日

無形の玩具としてのRPG(2)

 RPGは(コスティキャン的な意味では)ゲームではなく、玩具であると述べました。私は、ゲームを遊ぶことと、玩具で遊ぶことの間に優劣は存在しないと考えています。例えば、将棋はゲームですが、園芸はゲームとはいえないでしょう。むろん庭弄りをする人は、何かしら目標を持って園芸を楽しんでいるでしょうが、その目標は自由に決めてよいものですからコスティキャンの言うゲームの「目的」には当てはまらないでしょう。そして、将棋と園芸の一方が趣味として優れていて、他方が劣っているなどという人はいません。どちらも奥の深い趣味だということは、誰もが認めるところです。

 ところで、RPGがゲームでないならば所謂ゲームシステムなど不要であろうと言う人がいます。しかし、それは違うと私は考えます。RPGのルールやデータ、世界設定などは、いうなれば無形の玩具です。園芸において庭という玩具が楽しみを与えてくれるのと同じく、RPGにおいては巧妙にデザインされたルール等は無形の玩具としてそれ自体楽しみを与えてくれます。ルールとデータによって構築される世界を渉猟する楽しみ、セッションにおいて参加者の誰もが予想しない結果がシステムによってもたらされる驚き。それらもRPGの楽しみなのです。もちろん、所謂ゲームシステムが「ゲーム」のための装置としての機能を持つことを否定するわけではありませんが。

 それから、RPGにはダイス、カード、ミニチュア、キャラクターシート、マップなどの有形の玩具も同時に使われます。これらも単に「ゲーム」の為の手段ではなく、それ自体が楽しみを提供する力のある玩具でもあるのです。例えば、ダイスを降ることはそれ自体楽しい行為といえるでしょう。たくさんのダイスを一度にジャラジャラと振ったり、いろんな種類の多面体のダイスを振るのはさらに楽しいでしょう。透明やマーブル模様などのきれいな色のダイスは、目を楽しませてくれます。

 RPGの歴史を振り返ってみましょう。RPGはシミュレーションゲームから発生したと言われることがあります。私は、RPGはミニチュア・アクチュアル・ゲームから発生したと言うほうが適切ではないかと思っています。
 「シミュレーション・ゲームでは駒でしかないものが、生き生きとしたキャラクターとなっていったのがRPGの進化である。」大雑把に言うとこんな意見があります。シミュレーション・ゲームとの違い、断絶があることを重視する立場です。確かにそういう側面はあったと思うのですが、私の見方は少し違います。
 ミニチュア・アクチュアル・ゲームでは、ゲームの勝敗に対する関心に加えて、玩具であるミニチュアそれ自体を楽しむという面が少なからずあると思うのです。机上に並ぶミニチュアによってもたらされるイメージ、臨場感といったものの重要性。それがある種の「前適応」となってRPGの「進化」が実現したとは言えないでしょうか。先行するゲームとの断絶ではなく、連続性からRPGというものを考えたいというのが私の気持ちです。

 ちょっと話が散漫になりましたが、有形・無形の玩具の総体がRPGであるというのが、ここでの主張です。したがってRPGを形成する諸要素は、すべてが「ゲーム」に奉仕するものである必要もないと考えます。
 しかしながら、RPGにおけるゲームと言う要素を軽視するつもりはありません。それどころか、RPGにおいてゲーム性とは非常に重要な要素だとみなしています。これについてはまた後に。
posted by Glaurung at 03:23| Comment(0) | TrackBack(0) | その他RPG一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

無形の玩具としてのRPG(1)

 コスティキャンのゲーム論というのがあって、なかなか個性的で面白い。
 RPGはゲームか否かという議論は昔からあって、結局、「ゲーム」の定義次第で結論が決まってくるわけだけど、私はRPGはコスティキャン的な意味ではゲームではないと考えます。なぜなら、RPGには明確な目的がないからです。
 もちろん、明確な目的とは言えなくても、それに近いものはあります。そのゲームのルール・世界観から期待されるPCの役割だったり、シナリオのレベルで想定されるゴールだったり、プレイヤーが設定したPCの目指す目標だったりで、それらの目標を達成するためにリソースを操作して遊ぶという「ゲーム」的側面は、RPGにも間違いなくあります。しかしそれは厳密なものではなく、最終的な決定は遊び手に委ねられています。
 たとえば「シムシティ」でも、遊び手は(漠然とでも)何らかの目標を設定し、それを目指してプレイするのが普通でしょう。しかし、コスティキャンは「シムシティ」はゲームではなく玩具であるとしています。つまり、コスティキャンの言う「目標」とは、遊び手が任意に設定するようなものではなく、ゲームの方から遊び手に従うことを要求してくるルールの一種なのだと考えられます。
 それならば、コスティキャンの文脈で考えると、「シムシティ」がゲームのように遊ぶことができる玩具であるのと同様、RPGもまたゲームのように遊ぶことができる玩具ということになりそうです。
 誤解のないように断わっておきますが、私はRPGをゲームとして遊ぶことができないと主張するつもりはありません。プレイスタイルとして、RPGをコスティキャン的な意味でのゲームとしてプレイすることは可能でしょうし、その方向を否定するつもりはありません。また、コスティキャン的な意味でのゲームとしてデザインされたRPGや、RPGシナリオというのもありうるでしょう。喩えるなら、ボールはゲームではなく玩具ですが、ボールを使ってゲームをすることは可能なのと同じことです。あるいは、特定のゲームのために設計されたボールとそのボールを使うゲーム(のルール等)をパッケージにして商品化することもできる、ということです。
 しかし、そうした例が存在したとしても、一般にRPGがゲームであるとは言えないということです。
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2005年10月05日

アスキーD&D小説ラインナップ

 「魂の戦争」の最新刊が出たので、早速買ってきました。一度読んだものなので、今回は斜め読みのみ。続巻も年内発売ということで楽しみ。

 ドラゴンランス関連では、例のジュブナイル・シリーズが「ネアラ」というタイトルで今月28日から刊行開始されるようです。表紙絵は末弥純で、表紙にドラゴンランスの文字はまったくありません。"Nearra"のロゴもなんというかそれ風で、なんとか新規読者を取り込みたい意図が見えてきますが、果たしてどう出るか。
 そういえば以前(あとがきだったか?)ハーフリングの魔術師とあったのは間違いで、ケンダーの魔術師のようですね。Amber and Ashesにもケンダーのスペルキャスターが登場しますが、クリンにも3eの波が訪れたということでしょうか。

 アイスウィンドの続きは『暗黒竜の迷宮都市(ミスリルホール)』というタイトルで、年内に発売予定。評判の悪かった3分冊は止めになりました。サルヴァトーレのクレリック五部作の刊行も検討されているようです。

 さらに、なんと、グレイホーク小説まで刊行を検討しているとか。『グレイホーク The Temple of Elemental Evil』『グレイホーク White Plume Mountain』『グレイホーク Descent into the Depths of the Earth』、『グレイホーク Queen of the Demon Web Pits』『グレイホーク 国境の城塞』というタイトルが挙がっています。
 しかし、グレイホーク小説なんて売れるんだろうか。D&Dユーザーだけ狙い撃ちで、高額ハードカバーを小部数刷るのか。それならそれで受けて立つつもりですが。

 訳者には荒俣宏氏の名前が挙がっていますね。以前、荒俣宏訳でフォーゴトンレルムの小説が富士見から出ていましたが、あれはどう見ても荒俣氏本人の文体とは思えなかった。やはり本人は監修的なことをしているだけで、別の人が訳していたんでしょうか。はっきり言って良い翻訳とは思わなかったのですが、今回はさてどうなることか。

 D&Dのジュブナイルもので「銀竜の騎士団」なんてタイトルも挙がってますが、これはあまり興味なし。EverQuestの小説の方は、さらに興味なし。出ても買わないでしょう。
posted by Glaurung at 02:17| Comment(17) | TrackBack(0) | D&D3e, d20system | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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