2005年11月04日

無形の玩具としてのRPG(3)

 少し間が空きましたが、続きです。

 RPGという玩具で遊ぶ際に問題になるのは、多人数で遊ぶものだという点です。一人で遊んでも楽しくないですからね。
 一人で玩具で遊ぶならそれこそ好きなように遊べばいいのですが、多人数で遊ぶ場合は、如何にそれを共有するかという話になってきます。私の経験上、RPGに「ゲーム性」という要素を持ち込むことでその調整が楽になると感じています。
 「RPGではなんでも自由なことができる」なんてことが言われたこともありましたが、実際に参加者が各自勝手気ままに動き出したらセッションは崩壊します。そこで(厳密にはコスティキャン的な意味で「目的」とは呼べなくとも)進むべき方向を示し、RPGをゲームのように遊ぶことでセッションの崩壊を防ぐことができます。
 RPGは様々な要素から成り立っていますが、「ゲーム性」という要素はそれらすべてを繋ぎとめる役割を果たすといってもよいでしょう。

 繰り返しますが、RPGをコスティキャン的な意味での「ゲーム」として遊ぶことも可能です。だからといって、是非とも「ゲーム」として遊ばなければならないというわけではなく、セッションが崩壊しない程度に「ゲーム性」が含まれていればそれでいいのではないでしょうか。
 面子やプレイスタイルによっては、「ゲーム性」が限りなく希薄になってもRPGは成立すると思われます。逆に、参加者がお互いをよく知らず、プレイスタイルの擦り合せが十分でないときは「ゲーム性」を強くした方がやりやすいようです。あとは、プレイする人の趣味次第でしょう。

 ゲームマスターについても触れておきます。ゲームマスターは、RPGを「ゲーム」として楽しむことが難しい立場にあります。ゲームマスターが使用できるゲーム内のリソースを明確に制限して、同時に明確な目的(PCを全滅させる等)を設定すれば、ゲームとして遊べないことはないのですが。
 それではゲームマスターの楽しみとは何なのでしょうか。RPGをゲームとして楽しむことが難しい反面、玩具としての楽しみを他の参加者より多く得られるのがゲームマスターをすることの魅力ではないかというのが、私の考えです。だからゲームマスターをやるのも好きですし、ゲームができないからつまらないとはまったく思いません。

 最後に余談になりますが、コンピューターRPGについて。コンピューターRPGの人気も、純粋な「ゲーム」ではなく、「ゲーム性」を含んだ「玩具」であることが理由ではないでしょうか。ゲームを「クリア」するという一応の目的は与えられますが、必ずしもそれに捕われることはなく、目標達成に関わりのない行為を楽しめることがある種の「気楽さ」を生んでおり、他のコンピューターゲームにはない魅力になっているように思います。

 以上、コスティキャンのゲーム論から出発して、玩具としてのRPGを考えてみました。次は、同じくコスティキャンの試論から出発しながら、私とは逆にRPGをゲームとして捉えた「馬場秀和のマスターリング講座」について考えてみるつもりです。
posted by Glaurung at 01:20| Comment(0) | TrackBack(0) | その他RPG一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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